松山市立子規記念博物館

元気な姿の正岡子規

東京で終焉の地、子規庵を見たのだから、生誕地にも是非行ってみたいという事で訪れた子規博という愛称で親しまれている、子規記念博物館。市電の道後温泉駅から歩く道すがら、博物館の少し手前の広場に爽やかな野球青年姿の子規像が立っています。これで、終焉の地から遡っている身としては、博物館に入る前に、これから見る正岡子規は元気な姿の正岡子規で、雪の深さを訪ねたりしないのだと、まず病床の子規という先入観を切り離されます。ここに来るまでは正岡子規=病床の俳人、脊椎カリエスという強烈なイメージがまず先に出てきてしまっていたので、この元気はつらつとした青年子規の像は、これから博物館で誕生からその人生を追って見ていくのには大事な像だったと思います。

 

 

子規を培った土壌

この博物館は、子規記念博物館と銘打っているだけあって展示品の9割近くが子規に直接関連する物が占めている。ではその他は何なのか?それは子規が生まれ育った松山がどんな由来を持ち成り立ったかという説明の資料です。いわば子規の無意識下にある基盤はどんなものなのか知ることができます。まず四国全体が四県それぞれに一柱ずつの古代の神に由来し、「愛媛」だけはその名前が今でも残っています。また万葉集にも読まれている事から、からすでに温泉地として海を挟んだ土地まで名前が知れ渡っていたという事がわかります。額田王、山部赤人、軽大郎女等、名だたる歌人が歌を残しており、もしかしたら子規少年もこれらの歌に触れていたのではないでしょうか。大人になっては行くと言う限られた言葉数で無限に表現する手法を取ったその根源を垣間見たような気がしました。

 

 

子規の子供時代

幼少期の正岡子規に関する展示というのは生誕地だからこそできるものだと思います。写真は現物がある物もあり、よく見る子規の写真が思いのほか小さい物(撮影当時は標準かもしれませんが)だと驚かされました。もしろん子供の頃の写真もありました。子規7歳(1874年)の学校の集合写真に写る子規は頭に髷を結っていました。明治期になり髷は落とすのがポピュラーだったとは思うのですが、髪形も伝播する物なのか、それでも松山とは言え西の文化の中心には近いので首を傾げていた所、父親が松山藩に仕えていた武士で武家家系だったと言うのを知り、納得が行きました。また、山ほどある雅号の中で、正岡子規で定着しているのは、正岡常規と言う本名から一文字とっているからかしらと思う反面、野球姿の子規は「子規」ではなく、某著書のせいか「のぼさん」の方がなんとなくしっくりくるような気もしました。

 

青年時代の子規

幼少期から青年期の展示物(主に学校関連の物)を見ていて思ったのは、正岡子規がとても勤勉で利発だったという事。そして晩年までその筆は衰えを知らないのですが、絵を描くのがこの時分から達者だったという事。当時の流行は漢詩だったようですが、自分の言葉で自分の思うところ感じるところを描く基礎のようなものは、東京へ出てくる以前に既に才能として開花していたように思います。大学で知り合った友人、後の夏目漱石が、彼の文才に驚いたそうですが、さもありなんと頷けます。そして、もし、この出会いがなければ子規はジャーナリスト・歌人として名を残したかもしれませんが、「夏目漱石」は存在していなかったのではないかとすら思えます。

 

俳人子規として

子規がたくさんの雅号を持っていた事は知っていましたが、「子規」の他に何があるのかというのは具体的には知りませんでしたが、それがずらりと紹介されているコーナーがありました。その中に野球(これでのぼーると読む)や漱石等、馴染みのある物もありました。そして、何よりすごかったのが、俳句の研究です。過去の俳人たちの系譜・師弟関係の家系図のように長い一覧にしていたり、季語による俳句のジャンル分けなど、気の遠くなる量の今では資料になるような研究をしていて、俳句を詠むだけでなく、俳句に関する研究にいかに没頭していたのかというのが一目でわかりました。野球や食べ物もそうですが、好きな物に対して掛ける情熱というのが伝わってきました。

 

行動派子規

俳句を好んだ子規が松尾芭蕉に傾倒するのは予測の範囲内なのですが、実際に東北まで旅をしていたと言うのは少し驚きでした。この頃からいわゆる「聖地巡礼」というのがあったのかなと思わずにはいられません。旅先で書いた紀行文や詠んだ俳句で、きっと文才に磨きをかけた事でしょう。それから新聞社を経て、ジャーナリストとして日清戦争の終盤には従軍し清へ渡るのですが、改めてその行動力に驚かされます。晩年のイメージや、結核という病への先入観があるからかもしれませんが、当然ですが当時は不治の病で会ったはずの結核を患っていたとは思えない行動力だと思いました。そして、その行動力が従軍先で森鴎外との出会いに繋がると言うのも、人脈の引きの強さのようなものを感じます。

 

愚陀仏庵

子規博の中の写真スポットに漱石の下宿だった愚陀仏庵の一階の復元があります(現在の愚陀仏庵は土砂崩れにより全壊、現在は石碑が建てられています)。壁に投射して当時の会話風景がどんなものだったかという再現や、実際にその中に入ることもできます。下宿としては十分な広さですし、子規と漱石がここで談笑なり俳句の話などをするには必要十分な広さがありますが、ここに子規の弟子たちが集まり句会を開いていたというのですから、それはそれは賑やかだったことでしょう。漱石もこの句会の一員でしたがその時に使っていた雅号の愚陀仏が、そのままこの愚陀仏庵の名になったそうです。まだこの頃は漱石とは名乗っていなかったのかと思うと、なんだか不思議な感じがします。

 

文章の革新と子規

日本文学は明治維新の前後で大きく変わります。高校で教えられている教科の、明治以前は古文、以降は現代文と言えばわかりやすいと思います。一見すると日本の文学史が断絶しているようにも見えますが、明治維新の際に外国から様々な思想や仕組みを取り入れ日本語に訳しました。例えばLiberty=自らを由とする=自由がわかりやすい例として挙げられると思います。その時に重要だったのは漢文の素養で、明治になりガラリと変わったからと言って昔から受け継いできた知識を捨て去ったわけではありません。子規も同じく、当然ですが俳句を研究するだけの古典の知識があり、新しく変わっていく世の中で形式はそのままに、新しい俳句を模索しています。そして維新より150年ほど経ちましたが、日本の文学史はけして断絶しているわけではなく、古文・古典の知識と研究によって裏打ちされて形成されていったと言うのが、子規の研究や模索を見ているとよくわかります。

 

子規の絵心と筆致

何かと多彩多趣味な子規ですが、文章を書くほかに絵も多く残しています。画題も植物や身の回りの雑貨類、そして自画像も書いています。子規が新しく目指していた文章に『写生文』という物があります。日常的に絵を描いていた子規だったからこそ、このような言葉を使ったのかもしれません。ありのままを言葉で写し、書き留めるという行為は、病床にありながらも没するまで書き続けた子規にとって、どんな意味を持っていたのか思いを馳せずにはいられません。けれど、若くして亡くなった事や病の事はもちろんあるのですが、展示された物を見て感じるのは、子規の生命力です。展示の終わりのあたりに糸瓜にまつわる三首の絶筆の俳句まで、病を感じさせないわけではありませんが、暗い影のようなものをこちらに感じさせないのは子規がそれだけ生きる事に対して一生懸命だったからだと思います。

 

特別展『子規博の名品』より

常設展の他に特別展もやっていました。名品の題に相応しく、普段、何某かの媒体で目にしている子規の写真の現物があり、パネル展示などで思っていたよりもはるかに小さく手のひらにも満たない大きさだという事を知りました。そして、自分の死期を察した子規が、高浜虚子に自分の後継者になってくれるように頼み、断られた際に五百木瓢亭に宛てた手紙というよりも書物と言った方がいいような巻物は、長い事は何となく知ってはいたけれど、現物として見てみると尋常ではない長さで、こんなに太い巻物はおそらく後にも先にもお目にかかったことないという物でした(少なくとも長い物は巻が分かれています)。ただ、それほど熱心に子規が俳句の研究をし、自分の後継、ひいては自分亡き後の日本の俳句の行く末まで考えていたのかと思うと、こういう先人の熱意があってこその今の俳句や日本文学があるのだと思いました。

 

 

By Satoko 2018


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