熊本県の美術館・博物館・展覧会

西洋史と日本史の交差点

 歴史を西洋史を主軸に学んでいると、近代化が進むまで『日本』という国に関わる事がほとんどありません。その中でわずかに西洋史と交わるのが、交易関係とキリスト教の布教に関する項目で、その他は、幕末期に西欧に門戸を開くか否かというあたりで美術史にジャポニズムが花開くまで、歴史の上ではほとんど関りを持っていません。
ルネサンスから宗教改革を経て信徒獲得に乗り出したイエズス会と新規航路開拓をしていた商人が辿り着いたのが、よりによって日本史の中でも長いとは言えない戦国時代だったというのがなんとも面白い。陳腐な言い方をすれば運命のいたずらとも言えると思います。仏教を浸透させるのにもひと悶着あったこの国に、一神教というまったく毛色の違う宗教が関わるのは、何かに縋りたい、救いを求めたいと思うような、混乱期でなければ無理だったのではないかと思います。

 

ガラシャの結婚

 お市の方やその三人娘等、戦国時代に人生を翻弄された女性達がいますが、ガラシャもその一人だを思います。実父は信長の家臣で出世株の明智光秀、嫁ぎ先の細川藤孝(のちの幽斎)も同じく信長の家臣で文武両道、実情は想像でしかありませんが、戦の他、茶の湯や能など文化・芸術にも造詣の深かった信長にとっては、優れた文化人を側に置くことも一つのステータスだったのではないかと思います。この二人の娘と息子の結婚を命じる事は自らの敵の多さも理解し、家臣たちを結束を深め、離反を防ぐための政略結婚でしょう。しかし本能寺の変が起きます。ガラシャの父、明智光秀は義父の細川藤孝が味方に付くと当然思ったでしょうが、細川家はガラシャを人里離れた山奥に幽閉することで、明智との絶縁を示します。幽閉期間中に子供をもうけている事から、忠興自身は通っていたと思われますが、ガラシャと忠興の結婚生活は2年で途切れてしまいます。この時点で十分悲劇的だと思うのですが、波乱万丈なガラシャの人生のほんの序の口でしかありません。

 

改宗の理由を考える

 利休七哲にも名を連ねているガラシャの夫、細川忠興の人となりについて、展示物から察するに相当な趣味人だった事、時代的に必要な情報戦でもあったでしょうが筆まめで交友関係も広い印象を受けました。勿論、細川家を背負っているのですから、公的な事務処理もあったでしょうし、自分の領地の政策をどのようにするか等、まったく一人で行っていたとは思っていませんが、後々の細川家を見ていると、誰かに任せっきりにするのではなく、きちんと家臣を動かし、土地に根付いた政治を行っていたのだと思います。そして、出兵しろと言われれば武士ですから自分が行く。趣味に打ち込む時間がどこにあったのかが不思議なくらいですが、戦国時代の茶の湯はステイタスでもあったので、一石二鳥と言えなくもないのですが、それにしてはこだわり方が趣味人然としている気がします。幽閉を解かれた後も外出を制限されていたガラシャはそんな夫を見て、寂しかったのかもしれません。けれどそんな短絡的な理由で入信するような、考えの浅い女性にも思えませんが、父親は謀反人で帰る実家もままならない、八方塞がりだった事を思うと、何か一つ、自分の心を支える物が欲しかったのではないかと思います。

 

後世に残されたイメージ

 本展示には、日本側の各時代の資料の他に、カトリック教会側の資料も揃えられており、大名の娘・大名の妻・戦国の悲劇の女性・信徒ガラシャなど、細川ガラシャ(たま)について多角的に見て鑑賞者が自分でガラシャ像について考えることができる展示になっていました。関ヶ原の戦いの際に大阪で西軍の人質にとられそうになった時に、自刃か介錯かが不確定なので(キリスト教徒は自死は厳禁です)、オペラにされたりもしていますが西洋画で画題にされるルクレチア(貞潔を守るため自刃した女性)と似たような扱いにも思えました。日本でも能になっており、春に公演が行われました。芸術のテーマとして残されたガラシャのイメージには、物語として劇的するべく脚色された部分も多いと思います。ですが語り継ぐ事で歴史の中では埋もれてしまいがちな女性の人生が残り、再考・再評価される事はとても有意義な事だと思いました。


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